自分の頭で考える”思考力”とは?外山滋比古『思考力』より
外山滋比古(2013)『思考力』さくら舎
この『思考力』は、知的生活に関する古典である『思考の整理学』の著者によるものである。4章構成になっているが、ここで取り上げるのは、第1章の「自分の頭で考える力」である。筆者は、知識偏重の風潮の社会にあって思考力こそ重視すべきであるという。
ベーコン「知識は力なり」 → ベーコン的「知識の世界」
デカルト「われ思う、ゆえにわれあり」 → デカルト的「思考の世界」
人間の本質は、ものを考えることにある。知識より一歩先の「思考」にこそ力があるという。
思考とは
筆者は、思考とは「それはなにか、なぜそうなのか、という疑問をもって、それを自分の力で解こうとすること」とする。ここでは、二つのもののうちどちらがすぐれているかを比較、判断することが考えることのひとつと指摘され、どちらかに決めたら、なぜそれがすぐれているかを論理的に説明できなければならない、と説明する。
具体的な例として、選挙のとき複数の候補者から一人選ぶのも思考のひとつであるという。人から聞いた知識ではなく、自分で考えて選ぶということだ(選ぶという行為=思考)。ただし、候補者のなかから”人間としてどちらがすぐれているか”で選ぶには相当な判断力が必要であるという。この判断力を多くの人がつけることが民主主義を育てる活力になるというのだ。知っているか否かが重要となる知識と異なり、思考ははじめは答えがない。また、かならずしもひとつの答えに到達するとは限らない。考えた結果いくつもの考え方や答えがあっても一向にかまわないのである。
思考力をつける教育とは
また、筆者はこの思考力を教える方法について以下のように述べる。知識を教えるのは簡単だが、思考力というものは、知識のようにうまく教えられない。だから、趨勢としては、依然としてベーコンの「知識は力なり」という考えが現代社会においてもつづいている。筆者はこのような状況に対して次のように述べる
思考力をいかに伸ばすかということが、これからの日本にとっては重要な課題になる。その意味でも、いまの学校教育のあり方は、根本的に考えなおさなければならない。
生活の中での経験が不足していると、どうしても知識でものを判断しようとする。明快ではあるけれど、人間の社会はそれでなんでも割りきれるようにはできていない。ときとして、まずいことも生じてくる。
偏った知識によって善と決めつけたものばかりに頼りすぎることなく、悪いものをなにもかも拒絶することなく、もっと自然を認め、失敗や負けも受けいれて、免疫力をつけておかないと、自分でものを考えることのできない大人になってしまう。
知識の偏重
筆者は知識を流水、英知を伏流水に例える。知識はいつも変化しながら、流れている流行に過ぎないという。いずれはほとんどが消えてしまう。この流れる知識のごく一部が地面にもぐって、長い時間をかけて地下に到達し、それが30年ぐらいたって、泉となって地上に湧き出してきたときに、もとの知とはちがうものになっているという。これが英知である。これは、知識の上にある理性的な知恵であり、人間の文化を形成するものである。ただし、筆者は流水(知識)が悪いとは言わない。流水(知識)がなければ、伏流水ができないからだ。
昔の人は、社会生活の中では矛盾したことが同時に成立するということを、経験から知っていた。ところが、知識偏重のいまの人たちは、そうした矛盾を認めようとしない。ものごとをなんでも単純に割りきろうとする。知識の量は昔とは比較にならないほど増えているが、人間としての判断力は、いたって単純になり、経験を通さず、知識だけで決めつけようとするからである。
データ重視の風潮のなかで、経験や勘は軽視されるか、無視されることもある。経験や勘を軽視することは危険であることは明らかだ。データはあくまでも測定できたものにすぎないからだ。
筆者が重視するのは”解決のための知識がないとき”
知識はもちろん大事だが、その上に新しい知識を生み出していくためには、知識だけでは不充分である。考える力が不可欠で、その考える力をいかにして養い、教えていくかは、いまのところ見当がつかないけれど、そこに手をつけていかないわけにはいかない。
苦難や困難にぶつかって、それを克服しようとするときに、考える力が生まれてくる。解決するための適当な知識がないときには、自分の力で切り開いていかなければならない。その支えとなるのは、経験である。生活体験の中でつちかってきた知恵であり、知識のエッセンスが凝縮された英知である。新しい知識は、経験と思考から生まれるのだ。
筆者がいう知識や技術を中心に据えた模倣の社会においては、解決するための知識がないときこそが、思考力が試されるときなのであろう。