推敲には”三考”が必要である 外山滋比古『忘却の整理学』より
外山滋比古(2009)『忘却の整理学』筑摩書房
新しいことを考えるには忘却の助けが必要である。
これは忘却肯定の本である。忘れることを恐れない。忘れることを積極的なものとして考える。忘却が創造を起こす力を生み出すという。
筆者が提示するのは、”知識の蓄積→かなりの部分を忘れる→もとの知識から離れたオリジナルの思考が生まれる”というプロセスだ。知識を蓄積するだけでは、自由な思考が妨げられてしまうという。
「ナマの知識は使いものにならない。忘却をくぐらせて枯れた知識のみが新しい知見を生み出す。」「独創の土壌になるのが忘却である。」
筆者は、この本で忘却論の価値を主張しているが、とくに理論的な難しい本ではない。忘れることに関するエッセイ集であるが、インスピレーションを受ける本である。
いくつか気になった項目をあげておく。
忘却とは
知識の記憶は没個性的であり、忘却は個性的であるという。テストの点数が同じであっても、間違えるところは違うことが多い。つまり、忘却こそが個性の源泉というわけだ。
選択的記憶と選択的忘却
知識・情報社会においては、自然忘却とともに、意図して忘れるということが大切。
入れたら出す
知的不活発の人はむしろ忘却力を強化しろという。整理とは、余計なものを捨て、邪魔なものをとり除くこと。
知的メタボリック症候群
知識・情報社会においては、自然の消化力をオーバーして、知識の増大、保存、滞留をおこすことになる。これが長期にわたると、余剰な記憶、データが精神に悪作用をおよぼすようになるという。処方箋は、“知識性善説”と“忘却性悪説”から自由なることである。
記憶と忘却で編集される過去
“まだらな過去”。ひとりひとりは関心度、価値観によって記憶がとり入れたことを、忘却により客観的で深層の関心度、価値観によって対象の選別を行ない、価値の少ないとされたものを忘れるにまかせ、あるいは忘れようとする。
風を入れる
寺田寅彦のエピソード
寅彦は、執筆を依頼されて、引き受けると、その日のうちに書いてしまったらしい。そうして出来た原稿を机のひきだしに納めて、締切を待ち、読み返した原稿を渡すという手順を踏んだそうだ。
ヘミングウェイのエピソード
書いた原稿を銀行の貸金庫に入れてしまう。手もとに置けば、読み返したくなってしまう。こうすることによってしばし忘れることができる。ある期間がたったら、貸金庫の原稿をとり出してきて推敲を試みる。それで納得がいけば活字にする手筈をととのえる。もし意に満たなけれ、また、貸金庫へ寝に返すのである。
「わらわれは気軽に、考えた、考えた、と言うけれども、その初考は、なお、生々しく、不純なものを含んでいる。しばらくして、つまり風を入れてから、もう一度、考えなおす。再考である。多くはここどまりだが、念の入った推敲を試みるなら、三考が必要になる。風を入れることが洗練化の必須の条件であるとするならば、当然、多考がもっと行われてしかるべき。
この本の注意点は、"知識を蓄積する努力"を前提とした忘却の価値であることだろう。